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本の紹介

郷土の本

世界文化遺産や天草四郎、島原の乱に係る歴史資料を多数所蔵しています。※ここでは主なものをご紹介しています。南島原市で起こった出来事を調べてみませんか。

世界文化遺産

2018年7月に世界文化遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。
17世紀から19世紀の2世紀以上にわたるキリスト教禁教による宣教師不在の中、神道や仏教などの日本の伝統的宗教や一般社会と関わりながら信仰を続けた潜伏キリシタンの伝統の証となる遺産群です。
その中で「原城跡」は、幕府が海禁体制(鎖国)を確立するとともに、宣教師不在の中で潜伏キリシタンが長期間にわたって自らのかたちで信仰をひそかに続けるきっかけとなる「島原・天草一揆」の主戦場跡として構成資産に含まれています。

天草四郎

天草四郎は、本名を「益田四郎時貞」といい、両親は天草の大矢野出身でした。
島原天草一揆の時には、わずか15、16歳でしたが、総大将として領民を束ね、約3ヶ月にわたって壮絶な戦いを繰り広げました。
幼いときから利発な少年で、「海を歩いて渡った」「鳩の卵から聖書を出した」など伝説も多く残っています。

島原の乱(島原天草一揆)

島原天草一揆は、1637(寛永14)年に、島原・天草の領民たちが起こした一揆です。
島原半島や天草の領民たちは、藩主の悪政や禁教令に伴う弾圧に加え、飢饉が重なったこともあり、たいへん苦しめられていました。耐えかねた領民は、天草四郎を総大将に、一揆にたち上がりました。約3万7千人の領民が原城へ立てこもり、幕府軍に反抗しました。
約3ヶ月の戦闘の末、12万人にのぼる幕府軍の総攻撃により、参加した領民のほとんどが尊い命をなくしました。

原城跡

南有馬の原城跡は、有明海を臨む断崖にあり、島原天草一揆(島原の乱)の舞台となった所として知られています。1938(昭和13)年に国指定史跡となりました。
原城は、有馬氏によって、日野江城(北有馬町)の支城として築かれました。城は、島原天草一揆のあと徹底的に破壊されましたが、平成の発掘調査によって、昔のままの石垣が発見されました。また、鉄砲の弾、人骨、メダイ、クルス、瓦や茶わんなども次々と出土し、キリシタン関連の出土品の数としては日本一と言われています。

日野江城跡

日野江城跡は、戦国時代(1200年頃~1614年)のキリシタン大名として有名な有馬氏の城跡です。城跡からは、豊臣秀吉との関係を物語る金箔瓦や貿易の足跡を確認できる陶磁器などが数多く出土しています。
また外国の技術を使った石垣も発見されており、他の城では見られない貴重なものとされています。
日野江城跡は、領主・有馬氏、特に有馬晴信の権力と仏教を排してキリスト教を保護した歴史がうかがえる大変貴重なものです。

南島原市の遺跡

天正遣欧少年使節

イエズス会の巡察師・ヴァリニャーノは、日本でのキリスト教の布教が進む中、ローマへキリシタン大名の名代としての使節派遣を計画しました。使節に選ばれたのは、有馬のセミナリヨで学んだ伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルの4人。
日本で初めての公式使節団となる「天正遣欧少年使節」は、天正10年(1582年)2月に長崎港を出航しました。派遣の目的は少年たちに素晴らしいキリスト教文化に触れさせ、日本における布教活動の実績のアピールや、日本の教会への支援を得ることなどでした。一行は、ヨーロッパ各地で大歓迎を受け、スペイン国王やローマ教皇と謁見するなど、使節としての役割を果たしました。
しかし、8年半後に帰国すると、日本はキリスト教禁教へ向かっており、少年使節を取り巻く情勢は厳しくなっていました。少年使節が持ち帰ったものに活版印刷術技術や西洋楽器、海図などがあり、その後の布教活動や文化に影響を与えました。

活版印刷

天正遣欧少年使節が、持ち帰ったものに、グーテンべルグ式の活版印刷機があります。
使節が帰国した当時は、豊臣秀吉による「伴天連追放令」が出されている中、キリスト教に対する禁教の流れが強くなっていました。そのため、印刷機も人の目を逃れるようにして加津佐の地に運ばれました。天正19年(1591)、使節に同行して印刷技術を学んだ、諫早出身のコンスタンティノ・ドラードらによって、日本で最初の金属活字を使った「サントスのご作業の内抜書」などの本が印刷されました。
また、この「サントスのご作業の内抜書」は日本最初の西洋文学の翻訳書であるばかりでなく、宗教史の観点から「聖人伝」であるという意味において、日本文化史の中でも貴重な意義があると言われています。
その後、活版印刷機は、禁教の手を逃れるようにして、天草、長崎に移され「キリシタン版」と呼ばれる数多くの印刷物が出版されました。

キリシタン資料

今から約450年前(1562年)、当時の領主有馬義直によって口之津港はイエスズ会の宣教師を招くとともに、貿易港として開港されました。
南島原市の各地には教会が建てられ、西洋教育の原点といえるセミナリヨ(中等神学校)、
コレジヨ(高等学校)、ノビシヤード(修練院)、画学舎(美術教育)が建ち、最新の学問や技術が伝わり、当時の日本における国際交流の最先進地でした。
1869年(明治2年)、フィリピンのマニラにおいて大浦天主堂の創設者プチジャン司教により、日本の有家で印刷された2枚の銅版画が発見されました。
その、銅版画には『聖家族』「1596 in semino Japo Ariye(1596年、日本のセミナリヨに於いて、有家)」、『セビリアの聖母』「in sem Japo 1597(日本のセミナリヨに於いて1597」」
と印刷されています。
2枚の銅版画は、ローマ教皇(ピウス8世)に献上も「永く日本に保存するもの」として大浦天主堂に納められました。(昭和35年7月13日 長崎県指定有形文化財)
有家町にある「コレジヨホール」には、この銅版画のレプリカ(複製)2枚が展示されています。
南島原市では、先人の国際性と向上心を鑑として、平成11年度より「セミナリヨ版画展」を開催し、毎年5,000点以上の作品が日本中から出展されています。
コレジヨホール内にある有家図書館には、この二枚の銅版画の関連資料や「キリシタン研究資料」を多数所蔵しています。

からゆきさん

南島原市にある口之津港は天然の良港で昔から開かれた港でした。戦国時代には南蛮船(ポルトガル船)が来港し、また明治時代には三井三池石炭の海外の積出し港として栄えました。
明治20年頃から、石炭と共に石炭船に乗せられて、貧しい家庭の子女が中国や東南アジアへ売られました。これを『からゆきさん』と呼び、悲しい歴史です。ほとんどのからゆきさんが日本へ帰れなかったと言われます。
口之津歴史民俗資料館には、「からゆきさんコーナー」があり、映像もみることができます。

町史・郷土史

加津佐町・口之津町・南有馬町・北有馬町・西有家町・有家町・布津町・深江町に係る資料を多数所蔵しています。

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